オフ本(ENCOUNTER)の番外みたいなSS
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視界の端を掠め、ポタリと空から何かが降ってきて、楊海の肩に落ちた。
空は快晴なので雨ではない。
なんとなく嫌な予感がしながら、肩口を見やれば案の定。
『俺の一張羅に鳥の糞かよ……』
数を持っているとは言えない数着のスーツのうち、よりにもよって一番新しいスーツを着ている時に
落ちることはないんじゃないか?
一気に辟易とした気分になり、北京の往来で大きなため息をついた。
しかし、肩口という目立つ場所に落ちた糞をそのままにしておくわけにはいかず、内ポケットから
皺の寄ったハンカチを取り出す。
そして糞を広げないよう機を付けながふき取り、そのハンカチはそのままゴミ行きだ。
(どっかで糞と運をかけていた国があったよな~。ウ○チが付いたってポジティブに考えるんだっけ?)
語学を学ぶ傍ら、その国の文化も一緒に多少覚えたつもりだが、すでにうろ覚えの記憶だ。
寮に戻ったらすぐにスーツをクリーニングに出しておくか、と見慣れた中国棋院の受付に楊海は顔を出した。
公演という慣れないイベントを午後一に済ませ、受け取った書類を事務所に提出すれば、今日は放免である。
あとは今頃リーグ戦の対局が行われているから、それをゆっくり検討するつもりだった。
『日本人?』
中国棋院ではあまり聞かない単語を耳にして、楊海は提出用の書類を手渡しながら、気心知れた受付に振り返る。
『ええ、片言の中国語でしたので、多分日本の方だと思いますよ。昼過ぎごろに来て、ずっと塔矢先生の対局中継を見ながら一人で検討しているんです』
『へぇ?日本人でプロでもないのに棋院で観戦とは熱心なやつもいたもんだ』
国が推奨している中国や韓国と違い、日本での囲碁の人気はあまり高いとはいえない。
その中で、わざわざ中国棋院に足を運び、リーグ戦の観戦するような日本人がいたことを楊海は珍しく思った。
日本棋院でのプロを辞めたとはいえ、塔矢行洋の人気はまだまだ高いという。
その日本人も行洋の熱心なファンなのだろうかと思いつつ、受付から出された紙に手早くサインを走らせた。
『やはり珍しいですよね。とても綺麗な顔立ちをしていらっしゃった方なので、研究生の女の子たちが立ち代わり見てますよ』
『オイオイ、まるで中国棋院にはイイ男が一人もいないような言い草じゃないか?どこのどいつだ?俺より色男ってーのは?』
楊海の冗談に、受付も軽く笑ってみせ、サインの書かれた書類を受け取る。
『あそこで座っている長髪の方ですよ』
『ん?』
受付の示した方角を振り返り、楊海は一般用の席に座り、テレビ画面の中継を見ながら検討をしているらしい男を視界に捕らえた。
癖の無い黒くて長い長髪。
男のものだが、一般規格からすると細身の体格。
春物と分かる薄手のセーターを着て、すっと背筋の延びた姿勢。
楊海からは後ろ姿しか見えず、顔は確認できなかったが、どうにも見覚えのあるその背格好に首を横にひねった。
『楊海さん?』
頭をひねったまま固まった楊海に受付がどうしたのかと問いかけるが、それを気にする余裕は楊海にはなかった。
『まさか……、オイまさか……まさかだよな、ええ?ホントに?』
頭を起こし、自問自答を繰り返しながら、楊海は日本人だという長髪の男子の元へとおそるおそる歩み寄る。
「藤原さん!?」
「ああ、びっくりした。お久しぶりです、お元気でしたか?」
突然名前を呼ばれた佐為が驚くも、すぐに相手が誰か分かり、ふわりと楊海に微笑む。
「びっくりしたのはコッチです!何してるんですか!?」
「何って塔矢先生の対局の検討してますが?」
「…………」
「楊海さん?どうかされましたか?大丈夫ですか?」
「大丈夫です……」
確かに『対局の検討』は間違っていないが、楊海が訪ねた意図は『どうして中国棋院に藤原佐為がいるのか?』
ということである。
可能性はゼロではない。
だが、日本のプロ棋士でもなく、謎めいた圧倒的強さを持つネットのsaiが、いきなり中国棋院に現れて驚くなという方が無理だろう。
『楊海さん、お知り合いだったのですか?もしや日本のプロ棋士の方でしたか?』
『いや、プロじゃない。プロじゃないんだが――』
この穏やかで優しそうな風体からはとても想像できないだろうが、佐為はプロより強い。
半端なく強い。
弟子のヒカルが負けたところを一度も見たことがないと言っていたように、楊海も佐為が碁で負けるところを見たことすら一度もないほど、めちゃくちゃ強い。
しかし、それらを楊海が声高に説明するわけにもいかず、
『ちょっと知り合いなんだ』
と一言入れて、大丈夫だと示すと受付も安堵したように定位置の受付テーブルへ戻っていく。
「検討でしたら、こちらに検討室がありますのでご一緒にどうぞ。俺もちょうど向かうところです」
「しかし、私はプロではありませんし、関係者でもないのに検討室へ行くのは……」
「ではネットのsaiが一般対局室で一人で検討していると、検討室にいる連中にバラしたら、アイツラみんなこっちへ押し寄せて、一般客に迷惑がかかりますよ?
いや、むしろここは黙っておいて、俺と一局どうです?」
楊海自身、自分で言っておきながら名案だと機転を褒めたくなった。
日本に行ったときは、緒方たち他の棋士の対局を見て検討するだけで、結局最後まで佐為と対局することは出来なかった。
それが今は佐為一人で周囲には自分ひとり。
千載一遇のチャンスとはまさにこのことだろう。
先ほど、スーツの肩口に鳥の糞が落ちたのも、佐為との遭遇を暗示させていたのかもしれないと、調子よく思えてくる。
だが、楊海の都合よく世界は回ってくれはしなかった。
『楊海さん、そちらの方とお知り合いなんですか?』
『あの、紹介してもらえませんか?』
「へ?」
楊海が振り返ったそこに、研究生数名が目を輝かせて、佐為を見つめている。
もちろん全員女の子だった。
『日本の方ですよね?日本ではあまり囲碁は人気がないと聞いていたのですが、こちらに来られて観戦されるほど熱心なんですね』
楊海が何言う前に、女の子は口々に佐為に話しかけはじめている。
もちろんそれらは全て中国語なので、片言しかしゃべれないらしい佐為に、その会話を全て理解することは困難だったようで、
助けを求めるように楊海に視線を走らせた。
(通訳は別にいいけど、君たち外国の男性にも積極的に声かけれるくらい勇敢だったなんて全然知らなかったよ……)
いつも男などかまっている暇はないとばかりに碁盤に向かっている女の子が、我こそがと佐為を取り囲み
アピールする様は、奥ゆかしい中国人女性の姿はどこにも見当たらない。
「えっと、その、もしお時間ありましたら、みなさんで一局打ちませんか?」
楊海の助けを待ちきれず、佐為が不意に口走った一言に楊海がぎょっとした。
一局打つのはいいが、佐為と打ちたいのはあくまで楊海なのだ。
慌てて、間に割って入り、
「いやいやいやいや、藤原さん!先に俺とですね!」
「しかし、女性の皆さんを放ってしまうわけにもいきませんし、対局でしたら特に会話をする手間もないですから……」
つまり佐為はこの目を輝かせた女の子に囲まれた状況から、一秒でも早く抜け出したいのが本音なのだと言葉の端々から見て取れる。
レディーファーストという建前を上手く使われた気がしなくもなかったが、誰か佐為と対局したいかと女の子に問えば、全員挙手ときた。
(やめてくれ、俺と対局する時間が無くなる)
楊海がそう思ったのは間違いない。
佐為が集まっている女の子たちと一人一人対局すれば、いくらsaiでも相当な時間がかかるだろう。
まがりなりにも女の子たちだって、中国棋院の研究生なのだ。
しかし、佐為は挙手した全員と多面打ちし始めた。
研究生である自分たちと多面碁と言い出した佐為に、何も知らない女の子たちも流石に不安に思ったのか、
『楊海さん、この方は日本のプロ棋士なんですか?』
『いや……プロじゃないけど、藤原さんはすごく強いから大丈夫だよ』
(君たち全員で同時にかかってもきっと勝てないだろうから)
とは心の中だけの呟きにしておく。
何故なら、楊海自身ここまで丁寧な指導碁を打てるかどうか疑問に思えるほど、佐為は女の子たち全員に指導碁を打ってみせたのだ。
真剣勝負の一手ではなく、指導碁として相手を導く一手に、なるほどと何度頷きそうになったか分からない。
(棋士としても、指導者としても、レベル高過ぎだろ?どうすればこんな碁が打てるようになれるんだ?)
佐為の打つ碁を見るたびに、同じ疑問を楊海は抱く。
この日本の美丈夫は、本当に何から何まで想像以上なのだ。
数時間後、ようやく全員の指導碁が終わる。
佐為と打った女の子たちも、打たれた碁が指導碁なのだと分かっているから、それまでの佐為の外見に対するミーハー心を消して、
指導者に対する真面目な礼を返していた。
(やっと終わってくれたか、これでやっと俺の番が)
時間は遅れたが、これでようやく心置きなく佐為と打てると楊海が喜んだ瞬間
「佐為!?いつ此方に?」
対局を終えた行洋が現れ、佐為の姿に驚き声を上げた。
「昼過ぎです。仕事でこちらに来る用事があって、飛行機を一日早めれば観戦できるかなと思いまして」
現れた行洋の姿に、佐為が席を立ち上がる。
想定外な展開に、楊海の額を嫌な汗が滴り落ちた。
「そうだったのか。連絡してくれれば良かったのに」
「スケジュールが急に空いたものですから」
「ふむ。ではこれから時間は空いているのだろうか?もし空いているんだったら私と一局どうかね?」
(やっぱりーーーーーーーーーーーーー!?)
心の中では待ったをかけるが、塔矢行洋に待ったをかける勇気と根性は、楊海にはまだなかった。
「ぜひ!喜んで!」
(藤原さんまで!?)
後のことなど眼中にない様子で、行洋と連れ立って行ってしまう佐為の後ろ姿。
引きとめようと悪あがきしそこねた楊海の手が、格好わるく宙に浮いている。
『楊海さん?あれ?なんか楊海さんのスーツ臭わない?』
『……ごめん、さっき肩に鳥の糞が落ちてきて』
『やだー!!汚いー!!』
佐為がいなくなった途端、脱兎のごとく女の子たちが走り去って行った。